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クレイグ・ブラゼル(Craig Walter Brazell, 1980年5月10日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。アメリカ合衆国アラバマ州出身。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 アメリカでの経歴 1.3 西武時代 1.4 阪神時代 2 プレースタイル 3 人物 4 詳細情報 4.1 年度別打撃成績 4.2 背番号 4.3 タイトル・表彰 4.4 個人記録 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] ジェファーソン・デービス高校在学時から飛距離のあるバッターで「高校通算130本くらい打った」と豪語する。当時はアメリカンフットボールのクォーターバックも掛け持ちしており、NFLからオファーが来たこともあったが、試合中にタックルを受けて膝を痛め、野球に専念した[1]。 アメリカでの経歴 [編集] 1998年6月2日に、ニューヨーク・メッツからドラフト5巡目で指名を受け、同年6月4日にメッツと選手契約を結んだ。入団年は、マイナーリーグのルーキー級のチームであるGCLメッツで13試合に出場して、打率.298・1本塁打・6打点という成績を記録した。一方、守備面ではファーストとしての試合出場がメインであったが、捕手としても2試合に出場している。プロ入り後にブラゼルが捕手として試合に出場したのは、メジャーリーグを含めてもこの2試合だけである。 翌1999年は、同じくルーキー級のチームであるキングスポート・メッツでプレイ。本塁打こそ、約10試合に1本のペースとなる6本塁打に留まったが、59試合の出場でヒットを85本放ち、.385という高打率を残した。 続く2000年は、A級のキャピタルシティ・ボンバーズでプレイし、自身初となる100試合以上(112試合)の試合に出場した。前年に.400近い打率を記録していたが、この年は打率.241・8本塁打・57打点という打撃成績に終わり、目立った数字を残す事は出来なかった。 前年の成績が芳しくなかった事もあり、2001年もボンバーズでプレイしたが、出場試合数は30試合近く減少し、83試合にしか出場出来なかった。しかし、打撃面での成績は、打率.308・19本塁打・72打点と大幅に上昇し、出場試合数が減少したにも関わらず、多くの部門で前年を上回る数字を残した。 2002年には、A+級のセントルーシー・メッツに昇格。打率こそ.300には及ばなかったものの、100試合で16本塁打を放ち、2年連続で15本塁打以上をクリア。その後、ランクが1つ上のビンガムトン・メッツ(AA級)でも35試合で6本塁打を放った。この年は、2チーム合計で打率.276・22本塁打・101打点という打撃成績を記録した。 前年に引き続き、2003年もビンガムトンでプレイ。111試合の出場で、打率.292・17本塁打・72打点という成績を残し、シーズン終盤にAAAのチームであるノーフォーク・タイズに昇格。目立った数字こそ残さなかったものの、タイズでも12試合に出場した。 翌2004年8月17日、メッツでメジャーデビューを果たした。この年はメッツで24試合に出場して打率.265・1本塁打・3打点という数字を記録。なお、この年に放った本塁打は、メジャーリーグにおけるブラゼルの唯一の本塁打である。一方、マイナーリーグでもタイズで、単独のチームでの試合出場としては自身のマイナーリーグ記録となる123試合に出場。2年ぶりに20本以上のホームランを放った。 続く2005年もタイズでのプレイとなったが、52試合の出場で打率.249・6本塁打・28打点と結果を残せず、同年の10月15日にフリーエージェントとなった。 次なる移籍先を探す必要性が発生したが、約5ヶ月間、所属先を見つける事が出来ず、ロサンゼルス・ドジャースと契約したのは2006年3月7日になってからの事だった。この年、ブラゼルはドジャース傘下のチームであるジャクソンビル・サンズ(AA級)でプレイ。20本塁打と90打点をクリアしたが、一方で打率は.250にさえ届かなかった。10月15日に自身2度目のフリーエージェントとなったブラゼルだったが、この年は12月13日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約を結び、年内に移籍先を確保する事が出来た。 その2007年は、実に3年ぶりとなるメジャーリーグでの試合出場を果たしたが、試合に出たのは僅かに5試合のみであり、放ったヒットも1本だけという寂しい結果であった。一方、マイナーリーグではAA級のチームであるウィチタ・ラングラーズで7本塁打、AAA級のチームであるオマハ・ロイヤルズで32本塁打を放ち、2チームトータルで39本ものホームランを記録し、この年のマイナーリーグ全体の本塁打王となった。 西武時代 [編集] 2007年12月4日、埼玉西武ライオンズへの入団が発表された。推定年俸1億円の1年契約。メジャー通算1本塁打ながらマイナーでは通算162本塁打を打っており、オリックス・バファローズに移籍したアレックス・カブレラの穴を埋める選手として期待され、背番号もカブレラの42を受け継いだ。 2008年はシーズン開幕から4番を任された。真面目な性格で、当時打撃コーチだった大久保博元から積極的にアドバイスを聞くなど、日本球界へ積極的に溶け込む姿勢が見られた。3月は不調だったものの、4月に入ると好調に転じて17打点を挙げ、チームの首位浮上に貢献した。5月に入ると打率が.174と急落したが6月に復調し、打率.344、6本塁打21打点の活躍で来日1年目の外国人選手としては2003年のルーズベルト・ブラウン以来の月間MVPを受賞した。この受賞と、来日して以来自宅から西武ドームまで西武鉄道を利用して電車通勤していたことから、7月8日に西武鉄道が実施する「Save the earth」キャンペーンのイメージキャラクターに選ばれた。 打球方向が右翼に集中する傾向が強く、後半戦はブラゼル対策として極端に右翼側に守備が寄る「ブラゼルシフト」が各球団に浸透したこともあり低打率に喘いだ。徐々に成績は低下し、量産していた本塁打も8月下旬からは1本も打てなくなった。8月22日の対福岡ソフトバンクホークス戦で、空振りしたバットがすっぽ抜け、フェンスを越えて一塁側スタンドまで飛んで行き、観客が怪我をするというハプニングが起こった。この際ブラゼルは右肩を痛め、登録抹消となった。復帰後は定位置であった4番を外れ6番で起用されることが多く、時にはスタメンを外れることもあった。9月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で朝井秀樹から背中に、さらに10月4日にまたも対楽天戦で木谷寿巳から右側頭部に死球を受けて交代し、その後目まいの症状を訴えた。数週間経っても症状は治まらず、クライマックスシリーズに向けての宮崎合宿2日目となった10月8日、「めまいがある」と前日の練習から参加できなかったため、渡辺久信監督は「ぶっつけ本番でCSに向かうようなら、使うところはないということを本人にも言ってある」と発言し、緊急帰京して都内で精密検査を受けることになったが、結局、日本シリーズの登録枠から外されて帰国した。 新聞報道[2]によると、CSと日本シリーズでの助っ人の不在を記者に尋ねられた大久保博元打撃コーチは「もともと穴の多い選手だから」ともはや無用の存在と言わんばかりで、「オレは契約をどうこう言える立場じゃないけど、オレなら契約しない」ときっぱり言ったとされる。もともとブラゼルと大久保コーチには「9月中旬の試合で、狙い球を巡って言い合いになったことがある」(球団関係者)という確執があったとされ、小林信次球団社長はブラゼルの来期契約について「すべての戦いが終わってから」と話したが、当時現場で影響力のあった大久保コーチがメディアで"戦力外"発言をしたことは大きかったようである。ちなみにこの年西武は日本シリーズで優勝した。 ヒラム・ボカチカと共に、翌年の契約はクライマックスシリーズと日本シリーズの活躍次第であるとフロントから通告されていたことを理由に、ブラゼル選手が帰国して両シリーズに出場できなかったことと、頭部死球による故障から復帰のめどが立たなかったことから、11月14日に西武退団が決まり、11月19日にマット・キニーと共に自由契約公示された。 8月以降の急降下によって最終的に.234となった打率が再契約の最大の障害であったとされているが、一年目にして27本も放ったその本塁打数は立派で、当時千葉ロッテマリーンズの監督だったボビー・バレンタインは、シーズン中から「外国人3人(フリオ・ズレータ、ベニー・アグバヤニ、ホセ・オーティズ)を足しても、本塁打数がブラゼルに及ばない」と高く評価しており、オフにロッテが獲得に興味を示したが、井口資仁が入団したことで実現には至らなかった。 阪神時代 [編集] 2009年は、ボルチモア・オリオールズの春季キャンプに招待選手として参加したが、解雇されメジャー復帰はならなかった。複数球団の3Aからオファーがあったが、独立リーグ・アメリカン・アソシエーションのセントポール・セインツに入団。開幕から6試合で打率.556、4本塁打、11打点と好調だった[3]ところ、打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役を探していた阪神の目に留まり、5月28日に正式契約(シーズン終了までの契約)。背番号は当時空き番だった67になった。 西武時代にすでに他球団に攻略されていることから、当初は西武の渡辺久信監督から日本での活躍について否定的な発言をされていたが、6月5日に一軍登録されると、同日のオリックス・バファローズとの交流戦で金子千尋から移籍後初の本塁打を放った。同13日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、左膝、右膝、股間と3球連続で自打球を当てたが、その次の球を本塁打にし、この試合を含む4試合連続本塁打を放った。7月には、史上最強助っ人と呼ばれるランディ・バースからアドバイスを受けた[4]。この月は本塁打数こそ減るも安定した成績を残し、8月になるとまた調子を上げた。米国で長男が生まれた8月26日の対横浜戦ではプロ野球18人目となる1イニング2本塁打を放った。[5]阪神では1982年の掛布雅之以来で、外国人では1969年のウィリー・カークランド以来である。 9月に右膝の肉離れを起こして離脱し、復帰後も怪我の影響で時折スタメンを外れたり、なかなかヒットが出ず怒りをあらわにする場面もあったが、打撃は徐々に復調し、10月の対東京ヤクルトスワローズ戦で本塁打を打つなどチームの3位争いを牽引した。結局このシーズンは全試合の半分ほどの出場数だったが、終わってみれば打率2割9分・16本塁打の好成績を残し、全くの期待外れに終わったメンチの穴を埋めた。阪神では主に6番を打ったが、オールスターゲームまでは不振の新井貴浩に代わって5番を担った。シーズン終了後10月10日にアメリカへ帰国する際「生涯、阪神で選手を終えるくらいの気持ちでいる」と残留を熱望し、阪神への想いを語った。12月12日、年俸8,000万円の1年契約で2010年の契約を結んだ。 2010年は開幕から好調で新外国人のマット・マートンと共にチームをけん引する役目を果たした。6月19日の対横浜戦で大家友和からカウント2-1からの低めのチェンジアップを右中間席中段へホームランを打ち、両リーグ1番乗りの20号を記録(同日、阿部慎之助も記録)。阪神では1990年のパリッシュ以来5人目であり、ブラゼル自身は西武時代の2008年にも記録しているので、両リーグで記録したのは、阪神在籍の1975年と西武在籍の1983年に記録した田淵幸一以来で、外国人選手では初である[6]。同月29日には3打席連続ホームラン(24・25・26号)を放った[7]。オールスターゲームにも特別枠で選出され、第二戦では本塁打も放った。9月1日の対横浜戦で1986年に記録したランディ・バース以来となる助っ人外国人40本塁打を記録し、一時は本塁打王争いのトップに躍り出るが、5位広島・最下位横浜戦の下位チームには滅法強いが上位の中日・巨人戦は苦手にしており、上位チームとの試合が続いた終盤に調子を崩し、最終的にはアレックス・ラミレスには及ばず47本塁打で2位となった。 プレースタイル [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年5月に貼り付けられました。 アメフトをしていたこともあり、がっちりとした体型をしている。 豪快なフルスイングから放たれるホームランが魅力のパワーヒッターである。打撃には桁外れのパワーがあり、西武時代に故障でファーム調整していた際に西武第二球場に隣接する室内練習場で打撃練習をしていたところ、飛距離150 m越えの大飛球を連発し窓を破壊したり[8]、2008年6月27日に埼玉県営大宮公園野球場で行われた千葉ロッテマリーンズ戦ではNACK5スタジアム大宮のピッチまで届く場外ホームランを放った。阪神移籍後の2009年8月には打撃練習時の打球がスタンドの座席を破壊したりということがあった。 西武時代は極端にライトへ引っ張った打球が多かったが、阪神移籍後は引っ張りだけでなく逆方向へもホームランを放つケースが増えた。単に力任せではなく、左打者に不利とされる甲子園で浜風を利用し、それに必要な技術を備えていることを見せている。また、長打に限らず、不利なカウントに追い込まれるとグリップを余す打撃スタイルへ切り替えられる柔軟な思考により、巧みなバットコントロールを生かし左方向への軽打を見せるなど、西武時代よりも打率をかなり上昇させている。 初球から積極的に振っていく傾向があり、打席数に対して非常に四球が少ない。2008年は521打席で30個、2009年は295打席でわずか8つであった。 2010年は左投手に打率.241と苦戦したが、右投手に対しては打率.327、36本塁打と強さを発揮した。 守備では、軽快なグラブ捌きとライナーへの反応の良さから、捕球では安定感を見せている。バントシフトで一塁から猛チャージをかける一面も見せるが、全般的には巨体ゆえに動きがやや遅いため、必ずしも広い守備範囲とは言えない。また、巨体を動かしきれずにミット(グラブ)捌きだけに依存し過ぎた際のショートバウンド処理には、不安定さを見せることもあるため、総合的に見れば巧者であったとしても高い守備力とまでは言えない。 走塁では、左膝に古傷を抱えていることもあって遅く、打球の速さで進塁を自重する分を差し引いても、長打がある割には二塁打がやや少ない。膝の古傷のこともありチームがリードしている時には守備固めや代走を送られることがある。 人物 [編集] 阪神に移籍してからも西武時代の同僚とは仲がよく、2009年6月11日の対西武戦では、一塁を守っている際、ランナーに出たヒラム・ボカチカや中村剛也と談笑していた。その試合でジョン・ワズディンから西武ドームのライトスタンドへ本塁打を放ったが、チームは5-6で敗れた。 吉野家の牛丼が好物で、シーズン中は週4回食べに行っている。阪神在籍時の2010年には、「パワーブラゼル丼」と言う牛丼が阪神甲子園球場で販売された[9]。 一方、寿司だけは何度挑戦しても駄目だという。また、「噛みあうことが出来ない」という理由でタコも食べられないとのこと。 外国人選手は夫人の出産の際などはシーズン中に一時帰国することが多いが、ブラゼルは2009年に長男が生まれた際にも一時帰国せずシーズン終了までチームに帯同した。 ファンからの人気も高く、阪神に移籍した2009年には途中入団にもかかわらず、タオルやTシャツなどのグッズが製作された。ブラゼル自身の野球道具にも平仮名で名前が書かれているため2010年から販売された選手名入りの応援用タオルには、ひらがなで「ぶらぜる67」と印刷されている。 応援歌は2009年はシーズン途中の応援歌の作成はしないという応援団の方針により汎用曲の「ヒッティングマーチ2番」が使われていたが、2010年よりオリジナルの応援歌が作られた。 2010年の公式戦では、自身がホームランを打った際、ベンチ前でナインが出迎える時に葛城育郎が必ず列の最後部、その手前には浅井良が立ち、浅井とは一緒に両腕をお互いに腰の位置で引き合うポーズ(マスコミ等ではブラダンスと称されている)を、葛城とは両腕を挙げながらブラゼルは左脚、葛城は右脚を挙げるパフォーマンスを行っている。4月頃からは、トラッキーとも行なっている。 PR |
平野 恵一(ひらの けいいち、1979年4月7日 - )は阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 プレースタイル 3 詳細情報 3.1 年度別打撃成績 3.2 年度別守備成績 3.3 背番号 3.4 タイトル・表彰 3.5 個人記録 4 関連項目 来歴 [編集] プロ入り前 [編集] 神奈川県川崎市多摩区出身。川崎市立稲田中学校時代はリトルシニアの野球チームに所属する一方でサッカー部のレギュラーだった。桐蔭学園高校では遊撃手を務め、3年時には主将として第79回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1回戦で小町裕貴を擁する如水館高校を破るも、2回戦の西京高校戦では延長10回の末に敗退。当時から守備は天才とも評された。川岸強(現楽天)とは同級生でチームメイト、また当時同校のエースで後に阪神でもチームメイトとなる浅井良とは高校3年間同じクラスだった。 高校卒業後は首都大学野球連盟所属の東海大学に進学、遊撃手のレギュラーとして4年時に第50回全日本大学野球選手権で優勝した。リーグ戦通算82試合出場、305打数98安打、打率.321、34打点。ベストナイン6回。2001年のドラフト自由枠でオリックス・ブルーウェーブに入団。 プロ入り後 [編集] 1年目の2002年から好守の遊撃手として即戦力になることを期待されていたが応えられなかった。 2003年からは二塁手にコンバートされ、開幕スタメンに抜擢された。打撃はまずまずだったが守備で不安定な送球から失策を多発し、二塁から三塁手にコンバートされたホセ・オーティズと共にチームの守備を破綻させる一因となった。 2004年は打撃好調でシーズン通してレギュラー起用された。規定打席に到達し、10盗塁と三塁打7本を記録した。守備でも硬さが取れ、堅実なグラブ捌きを見せるようになった。 2005年は大阪近鉄バファローズとの球団合併に伴う選手分配ドラフトで同じ二塁手の水口栄二が加わったが、二塁手と外野手の併用で再三ファインプレーを見せた。前半戦は3割を超える打率をキープし、同年も規定打席に到達しチームトップの打率.285を記録。オールスターゲームにも出場し、新人賞を受賞した。東北楽天ゴールデンイーグルスとのカードでは、サヨナラ安打とセカンドライナーの好捕で2日連続のお立ち台も経験。同年オフの契約更改において一般女性と結婚し、第一子が誕生していたことを明かした。 2006年には中村勝広監督の方針で中堅手に専念する構想があったものの、前年と同じく二塁手と外野手の掛け持ち状態となる。しかし二塁手として出場した5月6日の千葉ロッテマリーンズ戦で風速10m以上の強風が吹く中、ファウルフライを深追いし一塁フェンスに激突。打球は捕ったが胸部軟骨損傷、右腰の肉離れ、手首と右股関節の捻挫など選手生命を脅かしかねない大怪我を負いシーズンのその後を棒に振った。オフの契約更改で当初球団は公傷扱いにせず交渉が難航したものの、最終的には「公傷」という表現こそ使わなかったものの球団側が折れた。同年10月21日にスカイマークスタジアムで行われた練習見学会では練習終了後の挨拶で「こんな小さな身体のボクを見て、頑張れば自分もプロ野球の選手になれるんじゃないか、と思ってくれているチビッコたちにひとこと言いたいと思います……そんなに甘かねぇぞ!」と発言、観客の爆笑を呼んだ。 2007年は主に中堅手として出場。コリンズ新監督に「1番バッターは彼しかいない」と絶賛されたが、故障と打撃不振で二軍との往復に終始。シーズン終了後、阿部健太と共に濱中治・吉野誠との2対2の交換トレードにより阪神に移籍した。阪神の岡田彰布監督は「濱中を出すのはわかった。ただし、交換要員は平野でお願いする。」とフロントに頼み込み、後に自身の著書『頑固力』(角川SSC新書、2008年)でも平野の重要性を説いた。 移籍初年度の2008年は外野手登録となったが関本賢太郎・藤本敦士・坂克彦らとの二塁手レギュラー争いにも参戦。オープン戦で結果を残したこともあって、2番・二塁手で開幕スタメン出場。1番・赤星憲広とのコンビは話題を呼び内外野両方でたびたび好守を見せるなど、チームのスタートダッシュの大きな原動力となった。同年は3年ぶりに規定打席に到達し、リーグ最多の47犠打を記録。オフにオリックス時代の重傷からの復活を称え、セントラル・リーグのカムバック賞を受賞した。 2009年はクレイグ・ブラゼルの加入に伴い一時はスタメン落ちするも、赤星の怪我による離脱もあり、金本知憲・新井貴浩・鳥谷敬らクリーンナップに次ぐ自己最多の132試合に出場した。 2010年は真弓明信監督の指示で再び内野手登録となった。同年のオールスターゲームに監督推薦で選出され、途中出場で6年ぶりに遊撃手を務めた。開幕からしばらくの間は高打率を維持しながらも何故か打点がなかなか付かず、5月終了時点で僅か2打点だった。(しかし、得点圏打率自体はさほど低くなかった) 7月17日のヤクルト戦では、ピッチャーの高市俊から、ボール球を打ち、バウンドの高いセカンドゴロだったが、セカンドの田中浩康のファーストへの送球で、一塁にヘッドスライディングし、アウトになった。これに対して平野は塁審の笠原に抗議をしたが認められず、悔しさのあまりグラウンドにヘルメットを叩きつけ退場処分となった。 最終的に打率はリーグ2位の.350、犠打数はリーグ最多を記録した。 プレースタイル [編集] 野球選手としては小柄だが、身体能力を活かした守備範囲の広さには定評がある。やや失策が多いものの、ダイビングキャッチなどの思い切りの良さが持ち味で好プレーも多い。走塁でもヘッドスライディングを多用する。このようなプレーに対して本人は「ケガを恐れていたらいいプレーは見せられないし、そもそもケガを恐れていたらそんなプレーはしていない」と持論を語っている。複数のポジションを守れるユーティリティープレイヤーでもある。 打撃面では小柄ながら速球に力負けしないパンチ力が持ち味。バントの成功率の低さを指摘されることもあるが本人は「サインの関係もあるが、どうせなら自分もセーフになってやろうとした結果」としている。左打ちだが右投手より左投手の方が成績が良い。 |
鳥谷 敬(とりたに たかし、1981年6月26日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。
遊撃手で史上唯一のシーズン100打点をクリアした人物である。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 プレースタイル 3 詳細情報 3.1 年度別打撃成績 3.2 年度別守備成績 3.3 背番号 3.4 タイトル・表彰 3.5 個人記録 3.6 登場曲 4 CM出演 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] 東京都東村山市出身。3兄弟の長男で、弟の司は東京農業大学を経てヤマハに所属している。 白梅女子短期大学付属幼稚園、東村山市立八坂小学校から羽村市立小作台小学校に転校。小学生時は東村山ジュニアメッツ、小作台少年野球クラブに所属し、野球の他に柔道もやっていた。元々は左利きで右利きに矯正されたため小学校の途中まで右打ちだったが、左手に箸を持ち弁当を食べていたのを見た監督から「左で打ったほうがいい」と言われたのがきっかけで左打ちに転向した。羽村第一中学校時代は瑞穂シニアに所属。 聖望学園高校では3年夏に遊撃手兼投手として第81回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の日田林工高校戦ではリリーフとして登板し、最速143 km/hを計測したが敗退。 高校卒業後は早稲田大学人間科学部に進学し、遊撃手に専念。後藤武敏と並んで東京六大学野球連盟史上最速タイとなる2年春での三冠王を達成し、4年春にはリーグ記録(当時)となる19四死球を記録。4年秋には2度目の首位打者を獲得し、ベストナインにも通算5度選出された。主に3番を打ち、同期の青木宣親・比嘉寿光・由田慎太郎らと共に中心選手としてリーグ戦4連覇に貢献。大学通算96試合出場、345打数115安打、打率.333、11本塁打、71打点。卒業論文テーマは『打撃動作における下肢の筋電図解析』[1]。走攻守揃った大型遊撃手として巨人、西武、横浜との争奪戦の末、2003年のドラフト自由獲得枠で阪神タイガースに入団。 プロ入り後 [編集] 2004年は大物ルーキーとしてキャンプ・オープン戦から注目され、藤本敦士とのポジション争いも話題となった。7番遊撃手で開幕スタメンに選ばれプロ初安打を放ったが、その後は結果を出せず、開幕5試合でスタメンを外され、6試合目からは藤本が正遊撃手となり、主に代打や三塁手として出場機会が限られたシーズン前半は77打数13安打、打率.169とプロの壁に苦しんだ。藤本がアテネオリンピック野球日本代表としてチームを離れた8月と藤本が不振に陥った9月中旬からシーズン終了までは再び遊撃手として先発出場する機会を得て、シーズン後半は158打数46安打、打率.291と持ち直し、プロ1年目の最終成績は打率.251、3本塁打、17打点であった。 2005年は藤本が二塁手にコンバートされ、開幕から遊撃手として全試合出場。2番を打っていた藤本と関本健太郎の打撃不振によりセ・パ交流戦以降は2番打者に定着。打率.278、9本塁打、52打点の成績を残し、サヨナラ本塁打を2本放つなどチームの優勝に貢献。自身初のオールスター出場、日本シリーズ出場も果たした。4月27日の対中日ドラゴンズ戦ではチームメイトの橋本健太郎がプロ初勝利を挙げたが、ウイニングボールをスタンドに投げ込んでしまった。同年オフ、高校の1年先輩で野球部マネージャーだった女性と結婚していたことが報道された。 2006年はシーズン前半は主に7番遊撃手、シーズン後半は6番遊撃手として全試合フルイニング出場。6月1日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で愛敬尚史から逆転2ラン本塁打、6月2日の対福岡ソフトバンクホークス戦では斉藤和巳からソロ本塁打とタイムリー二塁打、6月3日の対ソフトバンク戦では藤岡好明からサヨナラ安打を放ち、3日連続でお立ち台に立った。ファン投票選出で2年連続のオールスター出場。9月前半まで打率3割台を維持するも、シーズン最終盤に成績を落とし、最終成績は打率.289、15本塁打、58打点だった。9月に長男が誕生。 2007年は赤星憲広に代わり主に1番打者として出場したが好不調の差が激しく、打率.273、10本塁打、43打点と打撃成績が前年よりも落ち込んだ。7月24日の対中日戦で遊撃手として340試合連続フルイニング出場のプロ野球記録を樹立し、9月28日の398試合まで記録を伸ばしたが、その数日前に受けた死球の影響で翌29日に途中交代した。同年9月の東京遠征中に連日3人の女性を宿舎の自室に入れていたことが写真週刊誌の『FLASH』誌に『鳥谷敬・夜の3冠王』の見出しで掲載され、本人も事実関係を認めて球団から厳重注意処分を受けた。同年オフにレーシック手術を受け視力が回復した[2]。 2008年は開幕から6番遊撃手として出場。シーズン前半は3割を超える打率で、勝負強さも見せた。夏場に新井貴浩が離脱した際には3番や5番に入ったが調子を落とした。9月に今岡誠が復帰した後は再び6番に戻り、打率.281、13本塁打、自己最多の80打点を記録。10月19日のクライマックスシリーズ対中日戦では1試合2本塁打を放った。守備では1992年の野村謙二郎以来、リーグ16年ぶりのRF5点台という驚異的なレンジファクター(5.13)を叩き出すなど、リーグ最高の守備指標を記録したが、ゴールデングラブ賞はならず、議論を呼んだ[3]。同年は自身2度目の全試合フルイニング出場も達成してベストナインを初受賞。9月13日に次男が誕生。 2009年は開幕から3番遊撃手として出場。4月終了時点で90打数30安打14打点と好調だったが、5月に不調に陥り、打順も7番に降格し、チャンスで代打を送られるなど苦しんだ。シーズン後半は完全復調して打順も3番に戻り、打率.288、自身初の20本塁打、75打点を記録。安打、得点、打率、長打率、OPSはチーム1位。守備でも遊撃手としてリーグトップの守備率.990を記録した。これは1986年の平田勝男(.988)を上回る球団記録でもある。11月26日、引退した赤星憲広の後継としてチーム選手会長に就任した。 2010年は開幕から3番遊撃手として出場。5月にマット・マートンと交錯し腰椎を骨折した後、成績を落とし、4試合スタメン離脱。6月から7月まで1番打者を努め、3番に戻った8月から一気に調子を上げ、赤星憲広の持っていた球団月間安打記録を更新する43安打を放つなど、月間打率.422を記録し、月間MVPを初受賞した。10月2日の対広島戦で、遊撃手として史上初となるシーズン100打点を記録[4]。 10月5日の対ヤクルト戦でプロ通算1000本安打を達成。最終的には自身初の打率3割(.301)、19本塁打、104打点(遊撃手日本記録)と自己最高の成績を残した。リーグトップの得点圏打率.360を記録するなど勝負強さも光った。6月4日、選手会長として総務省近畿総合通信局から「地デジカ応援隊」タイガース隊隊長に任命された。7月2日に長女が誕生。 プレースタイル [編集] 打撃は二塁打や三塁打の多い中距離打者で、チャンスに強いクラッチヒッターである。選球眼に優れていて四球が多く、打率に対して出塁率が高い。 元々右利きのため、流した逆方向の打球が伸びる特徴を持ち、2010年に放った19本塁打のうち、左方向が7本、中方向が3本と左中間で半分以上を占めている。一方、右方向への引っ張った本塁打は9本であり、左打者として珍しい傾向が窺える[5]。 盗塁数は少なく成功率も高くないが、ベースランニングは上手く、2007年、2008年、2010年にはリーグ3位の三塁打を記録するなど走力・走塁技術は持っている。 守備は派手なプレーは少ないものの、堅実、強肩でレンジファクターは高く[6][7]、2006年には490補殺でセ・リーグのシーズン記録、2008年にはリーグ16年ぶりのRF5点台を記録するなど守備範囲は広い。2009年から就任した久慈照嘉守備コーチの指導の下、安定性を増し、守備率も向上させた。2009年には土のグラウンドの遊撃手しては史上初となる守備率.990を記録した。 怪我に強く、2005年から全試合連続出場中で、遊撃手としての連続フルイニング出場記録(398試合)を保持している。 トレイ・ヒルマン元北海道日本ハムファイターズ監督が日本球界のベストショートに選ぶなど[8]、セイバーメトリクスを重視する評論家などからの評価が高い。 グラブは久保田運動具店、バットなどはナイキのものを使用している。大学時代はハイゴールドの道具を使用していたが、プロ入り時に清原和博や中村紀洋など、一流選手のみしか契約していなかったナイキと新人ながら契約を結んだ。 |
ハジメちゃん
声:貴家堂子(第1作・第2作)、坂本千夏(第3作)、ゆきじ(第4作) バカボンの弟で生まれてしばらくしてすぐに言葉を話せるようになり、レコーダーを発明したり「ピタゴラスの定理」や「ケプラーの法則」の解説などもできる天才児。後頭部に一本だけブタの尻尾のように丸くカールしたアホ毛がある。元天才児だったパパの息子らしいと言えばらしいのだが、「これはワシの息子でないのだ」とパパが言って網走刑務所へ飛ばそうとするほど、今は性格も顔も似ていない。性格や顔は明らかにママ似である。なお漢字では「一」と書いてハジメと読み「何でも一番を目指してほしい」というママの願いを込めてでの命名となった(アニメ第1作の5話より)。1999年にNTT西日本の「ISDNはじめちゃん」のキャッチフレーズと共にフレッツISDNのCMに出演、この時の声優は貴家堂子である。 「20年後…」では、3年前(1989年?)に医学の研究でアフリカに渡り、「バカ菌」という菌を発見している。研究の苦労か、24歳[5]にも関わらずシワが多くなっている。 アニメでは誕生のエピソードが第1作序盤で描かれている。第1作では"はいはい"でしか移動できなかったが、すでに手は器用に扱える。第2作以降では二足歩行ができるようになっている。 第4作ではパソコンを持っている。 バカボンのママ 声優:増山江威子(第1作 - 第4作)、北浜晴子(第1作での代役) 黒百合女子大学の出身。パパとは女子大生の時に出会った。[6] トラブルメーカーのパパと、いたずら好きのバカボンに振り回されながらも、一家を守る良妻賢母である。基本的には穏やかな性格で、パパたちに本気で怒ることはほとんどない[7]。 原作およびアニメ第1作・第3作で同級生の成金婦人と再会した際、ママのことを「あっちゃん」「あっこ」と呼ぶことがあった。原作、およびアニメ第2作ではパパとの出会いのエピソードが描かれ、原作で「春菊の君」とパパが勝手に名付ける設定をもとに、本名は「春菊」とされた。実は告白したのはママの方からであり、そのやり取りは『金色夜叉』をモチーフとしたものだと思われる。 「20年後…」では、前編ではスタイルは不変だがシワが多くなっている。だが後編では、正月料理の食べ過ぎで相撲取り並のデブになってしまい、ダイエットのためにランニングをしようとした時、道端の釘を踏んづけてパンク死してしまった。 アニメ第2作の設定では年齢は32歳(第156話より)で、カエルが大の苦手(第35話)となっている。 第1作で一度だけ北浜が代役となった以外では、バカボン一家の中で唯一シリーズを通して声優が変わっていない。なお、赤塚は4回目のアニメ化に際し、「ママの声だけは(増山から)変えないで欲しい」との要望を出している。 1994年にはブルドックソースの『東京のお好みソース』のイメージキャラクターとして起用された。なお、CM本編では歌を歌っており(当CMのオリジナルソング)、このCMに出演した時のバカボンのママの声の主は歌手の中森明菜だった。 その他の主要登場人物 [編集] レレレのおじさん 声:槐柳二(第1作・第2作)、千葉繁(第3作・第4作)[8] 和服姿に下駄履きで、常に路上で掃除をしている。口癖は「おーでかーけでーすか? レーレレーのレー」。販売店かメーカーかは不明だが、「電気屋」の社長である。家族はすべて顔がよく似ている子供25人(五つ子が5組)で、全員独立している[9][10]。妻は既に他界。若いころの衣装は着物ではなくスーツだったが、柄は同じ。登場当初は「おでかけのおじさん」[11]ともいい、顔が登場するたびに変わっていた。ニューヨークではほうきではなく掃除機を使用していた。 「レレレのおじさん」のモデルは、作者がかつて愛読していた杉浦茂の漫画のキャラクターがヒントになっているという。顔つきや手の仕草(親指、人差し指、小指を立てる)など、共通点が多い。 アニメ第2作と第3作では、彼の兄弟として「ヨヨヨのおじさん」が登場している。1995年にアステル東京のイメージキャラクターとして双子の兄弟の「ルルルのおじさん」が選ばれ、2004年にはロート製薬「レスパ」のCMに出演。1989年の川崎市市長選挙時には、棄権防止を呼びかけるポスターに登場、2009年には「レオパレス21」CMで松平健が扮し「お住まいお探しですか?レレレのレオパレス」とアピールをしている。2010年では明治製菓の「チップチョップ」のCMにも出演している。 目ン玉つながりのお巡りさん(本官さん、目玉のおまわりさん) 声:田の中勇(第1作)、肝付兼太(第2作)、千葉繁(第3作・第4作) 「日本で一番銃弾使用量の多いおまわりさん」との異名も持つ。一時は「ピストルのおまわりさん」が公式名称だった。パパと幼馴染みで、両方の目玉が眉間のところでつながっている。パパには原作では「おまわりさん」、アニメでは「本官さん」と呼ばれる。私設派出所(表札は第2作では「横丁交番」や「下町交番」だったが、第3作では「こうばん」となっている、第4作では屋根にローマ字で「KOBAN」と書かれている)に常駐し、とにかくピストルを撃ちまくる。これが原因で警察をクビになったこともあったが、すぐに復職する。出身は埼玉県新座市である[12]。生年月日は昭和18年11月18日であることが第2作で語られている[13](これは該当話の演出を担当したさきまくらが自らの生年月日をそのまま使った、一種の楽屋ネタであった)。趣味は鉄道模型で、KC庁[14]模型クラブで優勝したことがある。優勝作品は「デゴイチ三重連」。連載開始当初は登場しておらず、その代わり?目玉がつながっていない普通の警察官が出てきていた(ただし、毎回顔が変わっていた)。なお、本名は白塚フチオ(第3作では『綱刈本官』とされた)、勇という本人そっくりの子供がいたが、あまりの嘘つきのため夜中にお腹が痛いと訴えたのを無視した際死亡。勇が面白がってついたウソで死に追いやられた医者の隣の墓に葬られる。 アニメ版で使用しているピストルは、第3作までは実弾を使用していたが、第4作では支給されなかったので本人自作の音だけはそっくりなモデルガン(しかし、連発のしすぎで暴発し、黒こげになるのがお約束)という設定になっている。 目はアニメ第1作では普段はつながっておらず興奮した時だけつながる。 鼻の穴は、第1作では2つだが、第2作以降、四角い鼻の穴1つになる。 帽子の下は植物の双葉のようなつつましやかな髪型だが、第2作、第3作ではモヒカン。 バカボンシリーズの他多くの赤塚作品に登場しているものの、主役になったことは一度もなく名脇役と言えるが、京極夏彦が赤塚とジョイントした小説にて、初の主演を果たしている。 他のキャラにも言えることだが、登場した話によって立ち位置が変わるため、バカで極端なキャラであったり、常識人の警察官であったりと性格は一定ではない。 その他のキャラクター [編集] バカ塚不二夫 漫画の中に登場する漫画家。赤塚本人がモデル。顔が横長である。『おそ松くん』に登場するダヨーンのおじさんに酷似している。 カメラ小僧 篠山紀信 鼻をたらし、クルクル周りながら写真をとる少年。 バカ田大学の学生 第4作では、バカボンのパパと遊んでいたり、助けを求めたりする。この後輩の話によると、バカボンのパパはいろんな研究会に入会していたらしい。 市原(いちはら) バカ田大学の学生、バカボンのパパとの関係は日米摩擦研究所の後輩で卒業後、現在の職業はオッサン自動車(日産自動車のパロディ)のセールスマンであり、特徴は鼻が馬のよう。 土坐衛門太(どざえもんた) バカ田大学の学生、バカボンのパパとの関係はなんでも溺れる研究会の後輩で溺れることに関しては一番のテクニックとバカボンのパパから言われており、道に水溜りがあれば溺れ、夏の祭りに金魚を見れば溺れ、全世界溺れる人がワラをもつかむ選手権大会の優勝候補。海水浴場で天女の洋子を見た時から溺れられなくなったその後は海水浴場のトウモロコシ屋を営み、たまたま来ていたバカボンのパパに相談し、行動、結果その後は本当に溺れてが直った。 尾夢列夫(おむれつお) 玉子協会大物代議士でバカボンのパパに似ている。鼻毛の右側にホクロがある所以外は全てパパと同じ顔の形をしている。逃げるときは鶏になる。 熊田くん/手塚ブト治 声:第3作松本梨香 第4作山口勝平 バカボンのクラスメートで鉄カブトのことしか言わない変わった少年。原作とアニメ第3作では熊田くん、第4作では手塚ブト治として登場する。元は素直で賢い少年だった。鉄カブトのことしか言わなくなった経緯について、第3作では父親が製本所のミスとも知らず買い与えた野口英世のカバーをした鉄カブトの本を言われたとおりに一字一句読み続けたため(ちなみに鉄カブトの本のカバーをした野口英世の本を読んだ鉄カブト工場の従業員は野口英世になりきっていた)、第4作では戦場に行っている父親の影響によるものとされている。基本的に「たたえよ鉄カブト!」としかしゃべらず、長文は鉄カブトに関する言葉しか発しないが、母親を初め周囲とはなぜかコミュニケーションが取れている。第3作では父親が、第4作では祖父が、彼の事を心配していたが本人と母親はさほど気にしてはいない。 タリタ バカ田大学の都内に一戸建てを建てよう研究会に入っていたバカボンのパパの後輩で、バカボンのパパに家を建てたいと相談したがパパは将棋好きの大工さんに代わって家を建て始めたらへんてこな家になってしましい、最終的には将棋好きの大工さんに建ててもらったものの家がどうしても将棋の駒型になってしまっている。 凡田先生 声:北村弘一 バカボンの担任教師。アニメ第1作にのみ登場。時に厳しく、時に優しい先生だが酒乱。 中村くん 声:肝付兼太 バカボンにいじわるをするクラスメート。アニメ第1作にのみ登場。たこ八郎に似ている。 さくらちゃん 声:沢田和子 バカボンのガールフレンド。アニメ第1作に登場。第4作にも一度だけ登場。このときの声は3代目ハジメの声を演じたゆきじ。 青成(あおなり)くん 声:沢田和子、小宮山清 バカボンのクラスメート。アニメ第1作に登場。父とは出生の前に死別しており、幼い弟がいる。バカボンと気が合い、中村からばかにされるが、逆のパターンもある。学級委員に立候補したときに「タケナカ」と呼ばれるが、本名なのか別人なのか不明。実際夫婦喧嘩でパトカーがくる騒ぎになったと語っているのが別人の裏づけと思われる。扱いが最も不可思議なキャラクター。 ご隠居(山田さん) 声:北村弘一、肝付兼太 パパの植木屋の常連客。第一作のみに登場。話によっては他人の空似の別人とも考えられる。 乱打(らんだ) アニメ第2作に登場。バカ田大学の先輩らしいがバカボンのパパをなんらかで助けたお礼につけ込んで気の荒い息子を無理やり預けさせた。本官さんも強盗殺人犯に追われているところをかくまったこともある。 イヤミ 声:緒方賢一(第4作) 元来は『おそ松くん』のキャラであるが、ゲストキャラクターとして頻繁に登場する。タイトルの垣根を越え、赤塚漫画のスター・システム的存在としての起用だが、当作品中でも常に嫌味な役柄である。イヤミ以外では、チビ太など『おそ松くん』の登場人物もアニメ第3作と第4作に登場したが、端役で出番は少ない。また、彼を演じた緒方は、天才バカボン全作のゲストキャラを演じていた。 ベラマッチャ 元はレッツラゴンのキャラ。クマ。語尾に「~ベラマッチャー」がつく。 ウナギイヌ 声:池水通洋(第2作)、田原アルノ(第3作)、塩屋浩三(第4作) ウナギとイヌの特徴を併せ持った珍獣。黒く太いウナギの体にイヌと同じく4本の足があり、「ワンワン」と吼える。 詳細は「ウナギイヌ」を参照 ノラウマ 原作で一時期レギュラーだった馬。初登場の際、バカボンから盗んだカップヌードルをオシッコで作り、おまわりさんに食べさせたり、さらには馬糞を食らわせたりと素行悪し。会社勤めをしていたが、競馬をあまりにも当てすぎるため、仕事を追われてノラウマになった、という過去がある。正レギュラーの座を狙っていたが、ウナギイヌに二番煎じと罵られ激怒、以後の出演をボイコットすると言い出し、その話の後のコマも全て空白になった。なお、初登場の回だけ、特別にタイトルが「天才ウマボン」になっていた。 夜のいぬ 原作・アニメ共に終盤に登場する、シーン転換時に登場するキャラクター。リアルなタッチの背景をバックに、逆立ちしている。1995年にはルルルのおじさんと共にアステル東京のCMに出演、東京タワーにしがみついている。 このほか、赤塚作品以外からのゲスト出演もいくつかある。『ぼくらマガジン』連載時には『ダメおやじ』のダメおやじこと雨野ダメ助[15]、『コミックボンボン』連載時には『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』からRX-78NT1 アレックスが登場した。また、月刊少年マガジンでは『ヤンキー烈風隊』から岩倉猛が3回ほど(そのうちの1回はパパが『烈風隊』の読み過ぎで変貌したもの)、『いけない!ルナ先生』からはルナ先生とわたるが登場したこともあった。 バカ田大学 [編集] バカボンのパパの母校。早稲田大学のパロディである。略称はバカ大だが、アニメ第3作以降では使用されていない。創立者は脳加良吉(のうが よいきち)である。また、通常の大学とは組織体系が異なるようで、学長ではなく校長と教頭がいる。人間だけでなく、アホウドリも学生として在籍しているらしい。一度倒産したことがあるが、すぐに再建された。アメリカに姉妹校のアッホー大学、バーカード大学がある。 所在地は「都の西北早稲田の隣り」であり、校歌内でもそのように歌われている(これも早稲田大学の校歌「都の西北」の歌詞のパロディである)。作中で大学時代の友人がバカボンのパパを訪ねて来るとこの校歌が歌われる。校歌のメロディーは早稲田大学の物と同じだが、アニメ第1作で歌われた場面では全く別のメロディーであった。 本物の早稲田大学にさえ存在しない医学部があり[16]、それゆえ附属病院もある。『ブラック・ジャック』の「アヴィナの島」に、バカ田大学で医学を学んだという医者が登場し、医師免許も登場するが、その免許証には逆様になったバカボンのパパの顔写真がある。 バカボンのパパがテイノウ義塾大学の学生と言い争っていた場面で、テイノウ学生が「卒業して就職した者はいない」と言うと、パパは「バカ大をまともに出た者はいないのだ」と言い返したが、その真相は不明。謎本ブームの最中の1993年にフジオ・プロの協力で書かれた「天才バカボンの大神秘」(KKベストセラーズ、ISBN 4584181543)では、これをおそらく留年しないで卒業した者がいないという意味だと推定している。 作中で判明している学部・学科には、医学部、工学部、考古学部、社会学部、生物学科、スケベ学科がある。また、学生は何らかの「研究部」(アニメ第3作では「研究会」と称している)に所属しており、バカボンのパパを訪ねて来ると、必ず「バカ田大学●●研究部(研究会)の○×です」と挨拶をする。赤塚のアシスタントを長年勤めていた長谷邦夫によれば、連載当初早稲田大学の学生だった角南攻がよくフジオプロに遊びに来ていて、そのとき「我々は早稲田大学の××研究会の者です」と自己紹介したのが受け、「バカ大の○○研究会の者です」と作品に採り入れたとのことである。 作中に登場した部活動・サークル(研究会)には、演劇部、タバコ研究部、空手部、高木部、カレー研究会、戦争ごっこ研究会、かくれんぼう研究会、太平洋横断研究会などがある。 ライバル校はテイノウ義塾大学(実際の早稲田大学のライバル校とされる慶應義塾大学のパロディ)。留学生としてイワンのバカ(イワンのばかのパロディ)が在籍している。なお、バカボンのママの出身校・黒百合女子大学は白百合女子大学のパロディである。 なお、赤塚の活動拠点である新宿区落合は実際の早稲田大学からほど近く、早稲田大学の学生も多く住んでいる。早稲田地区とは早稲田通りでつながっており、地下鉄東西線の落合駅から早稲田駅までは二駅(約4km)の関係である。 |
『天才バカボン』 (てんさいバカボン、英題:The Genius Bakabon)は赤塚不二夫のギャグ漫画。赤塚の代表作であり、これまで4回にわたってアニメ化されている。
目次 [非表示] 1 概要 2 作品解説 2.1 タイトル 2.2 作風 2.3 掲載誌の移籍 2.4 派生作品 3 登場人物 3.1 主要登場人物 3.1.1 バカボン一家 3.1.2 その他の主要登場人物 3.2 その他のキャラクター 4 バカ田大学 5 コミックス 6 補足 7 アニメ 8 ゲーム 9 脚注 10 関連項目 11 外部リンク 概要 [編集] 『おそ松くん』において、ギャグ漫画家として不動の人気を得た赤塚不二夫が続けて描いた作品。初出は1967年4月9日発行の『週刊少年マガジン』。『週刊少年サンデー』、『週刊ぼくらマガジン』と連載雑誌の断続的な切り替えなどを行い『月刊少年マガジン』1978年12月号で一応の完結を見るが、その後も現在に至るまで単なるギャグ漫画の枠を越え、単行本、テレビ、CMなど各種メディアに取り上げられている。また作品自体も、何度かにわたり『コミックボンボン』などで再執筆され、『ボンボン』では2006年12月号まで傑作選が掲載されていた。傑作選は当時の再録だが、時代にそぐわないセリフや過激な下ネタなどは差し替えられていた。 2007年10月17日、連載開始40周年を記念して、連載を取り合った[1]ライバル出版社の講談社と小学館が協力し、ベスト集『天才バカボン THE BEST』2冊を発売。内容は異なるが、題名や表紙のデザインを統一するという異例の企画であった。2冊ともにB6版、352ページとなっている。講談社版には、1988年から1992年にかけて『月刊少年マガジン』、『ヒーローマガジン』、『デラックスボンボン』の各誌上で発表された単行本未収録作品も多く含み、小学館版には『サンデー』掲載分をすべて収録している。 作品解説 [編集] タイトル [編集] タイトルおよび作中のキャラクター名である「バカボン」の語源は、現在公式には梵語の「薄伽梵」(ばぎゃぼん、釈迦如来)に由来するとされている。これは「トリビアの泉」でも紹介された。 また、バカボンのパパの常套句「これでいいのだ」も「覚りの境地」の言葉である様で、レレレのおじさんも、お釈迦様のお弟子の一人で「掃除」で悟りをひらいたチューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく) をモデルにしているという。 ただ、赤塚自身は生前に雑誌等のコメントで異説(馬鹿なボンボン、バガボンド=放浪者、天才=ハジメちゃんとバカ=バカボンのパパとボンボン息子=バカボンの3人合わせて「天才バカボン」とした説、等)も唱えていたことがあった。 なおタイトルに「バカボン」とあるものの、当作品において主に活躍するのはその名を冠したキャラクター・バカボンではなく父親の「バカボンのパパ」である。実際にバカボンが登場しない話が数話ある。 作風 [編集] 初期はバカボンとバカボンのパパが話の中心となるナンセンスギャグであった。中期よりパパの母校であるバカ田大学の後輩などが登場し、パパを中心としたスラップスティック・ギャグ作品となっていく。掲載誌が『マガジン』に復帰してからは次第にシュールなギャグや突如一コマだけ劇画タッチになる、楽屋オチの頻発、意図的な手抜きなどといった実験的手法が増え、純粋なナンセンスギャグであったこの作品に変化が生じてくる。後期にはパパさえ登場しないことも少なくない。刑事用語の解説が出てきたり、わざと絵を下手にして自らのアシスタントが不在という設定で描いていたり、「赤塚不二夫」から「山田一郎」に改名しようとしたりするなど、本作とは全く関係ない話も多く見られる。こうして、中期までと後期とでは作風がかなり異なってきている[2]。なお、アニメ第2作『元祖天才バカボン』の放送開始に際し、一度終了していた『マガジン』の連載が一時的に復活していたが、そこでは毎週5ページの限られたスペースでコンパクトにまとまったマンガ版ショートショートが展開されていた。 掲載誌の移籍 [編集] 1969年、それまで『週刊少年マガジン』に掲載されていたのが、『週刊少年サンデー』に掲載誌が変更になった。 『サンデー』に移った本作は、同時掲載の『もーれつア太郎』にニャロメが登場して人気が高まったこともあり、次第に精彩を欠くようになっていった。結局『サンデー』掲載の本作は半年余りで打ち切られた。『サンデー』掲載時の作品は講談社コミックス版の単行本には未収録であるが、上述の『天才バカボンTHE BEST 小学館版』のほか、竹書房発行の文庫版、また現在絶版だが曙出版発行の単行本でも読むことができる。この時期の作品はページごとのコマの四隅の角が丸くなっている。 その後、1971年に初めてテレビアニメ化が決定したことを理由に『週刊ぼくらマガジン』で連載を再開。1か月後、同誌の休刊で『マガジン』本誌に返り咲き、以降1976年まで連載された。 派生作品 [編集] 『バカボン』の派生作品としては、1969年から1971年まで漫画サンデーに掲載された『天才バカボンのおやじ』(連載途中から古谷三敏が作画を担当)、1972年に赤塚が自主出版した漫画雑誌・まんがNO1に掲載された『天才バカボンのパパ』がある。なお『天才バカボンのおやじ』はダークな展開や下ネタを多用するなど成人向けに描かれた作品ではあるが、そのいくつかのエピソードは『元祖天才バカボン』でアニメ化されている。このほか、長谷邦夫が作画を手掛け、河口仁が手助けした『テレビマガジン』掲載版がある。2010年2月には、天才バカボンからの名シーンや名言を集めた「天才バカボン幸福論。夜のつぎは朝なのだ。」(主婦の友社)が刊行されている。 登場人物 [編集] 声はアニメ版のもの。 主要登場人物 [編集] バカボン一家 [編集] バカボン一家の居住地の設定は、赤塚不二夫自身の事務所「フジオプロ」がある東京都新宿区中落合。原作ではこのことに幾度も触れており、実際に中落合界隈に存在する店舗名もしばしば登場する[3]が、アニメでは触れられていない。 バカボン宅の表札は原作の大部分、およびアニメの第1部第1話などでは「バカボン」、原作の児童誌発表分などと、アニメの大部分では「バカボンのパパ」である。アニメで登場するバカボン宅の電話機は第3作までは黒電話だったが、第4作ではコードレス留守番電話に進化している。電話番号は、(880)6974 「パパワ ロクデナシ」である[4]。 バカボンのパパ 声:雨森雅司(第1作・第2作)、富田耕生(第3作)、小倉久寛(第4作) 主人公。もともとは天才であったが、アクシデントがもとでバカになり現在のキャラクターとなった。赤塚曰く「パパは無職でないといけない」としているため、原作、アニメともに基本的には無職ということになっている。名前は不明だが、豊福きこうは著書『天才バカボンのパパ「国会で細川総理が決めたのだ!!」宣言』で、上記の表札の分析から父、長男とも姓名なしの「バカボン」で、区別するために父バカボンを「バカボンのパパ」と呼ぶのはないかと推理している。また、フジオプロのサイトでの質問コーナーでは「そんなもの(本名)はないのだ」と記されている。 口癖は「これでいいのだ!」「タリラリラ〜ン」「コニャニャチハ」「はんたいのさんせい」「さんせいのはんたい」など。「〜なのだ」という語尾の多用も多く、アニメのサブタイトルのほとんどに使われている。 詳細は「バカボンのパパ」を参照 バカボン 声:山本圭子(第1作・第2作)、林原めぐみ(第3作)、亀井芳子(第4作) 天才バカボンのタイトルが示すとおり、本作における本来の主役。しかし主人公として機能していたのは連載初期のみで、「描いてるうちに(バカボンの)パパのほうが面白くなっちゃった」(赤塚談)という理由でパパに主役の座を奪われたため結果的にパパの引き立て役に転じた。当初はドタバタホームコメディ漫画における「頭は良くないがのんびりした心優しい性格の主人公」という役割を担っていたが、主役交代とそれに伴うナンセンスギャグ漫画へと作品傾向が次第にシフトしていくに従って、不条理なパパの言動をアシストする愚直で腹黒い面もあるキャラに変化していった。パパと一緒になって悪さをはたらくことが多いが、パパに振り回されひどい目に遭うことや、時にはパパをひどい目にあわせたこともあった。勉強は苦手だが、ママの誕生日プレゼントを用意するために、靴磨きのアルバイトをするなど、優しい面も。アニメ版では概ね初期原作のイメージで登場している。アニメ第1作では、逆立ちで苦もなく歩き、ハジメをいじめたクラスメートを懲らしめるほどの身体力を持つ。通っている学校は、アニメ第1作では「坊毛茄子(ぼけなす)小学校」だったが、アニメ第4作の最終回では「バカ田小学校」に変更されていた。連載開始当初は着物の下にズボンを履いていたが、すぐにおなじみの着物+靴スタイルになる。パンツは履いていない。『トリビアの泉』の中で「お釈迦様は仏教語でばかぼん」というネタが紹介されたことがある。 1972年発表の「20年後のバカボンなのだ」(前後編)では20年後(1992年)の一家が描かれているが、前編ではバカボンには「マジメ」という息子が生まれたものの、大変な悪ガキであるために、気苦労で推定30代にも関わらずスキンヘッドになってしまう。そして後編では下痢のため、谷岡ヤスジ漫画を思わせる様なガリガリになってしまう。 2010年、明治製菓の菓子「チップチョップ」のTVCMキャラクターに起用される。 |