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【2024/11/28 13:33 】 |
クレイグ・ブラゼル
クレイグ・ブラゼル(Craig Walter Brazell, 1980年5月10日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。アメリカ合衆国アラバマ州出身。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 アメリカでの経歴
1.3 西武時代
1.4 阪神時代
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・表彰
4.4 個人記録
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
ジェファーソン・デービス高校在学時から飛距離のあるバッターで「高校通算130本くらい打った」と豪語する。当時はアメリカンフットボールのクォーターバックも掛け持ちしており、NFLからオファーが来たこともあったが、試合中にタックルを受けて膝を痛め、野球に専念した[1]。
アメリカでの経歴 [編集]
1998年6月2日に、ニューヨーク・メッツからドラフト5巡目で指名を受け、同年6月4日にメッツと選手契約を結んだ。入団年は、マイナーリーグのルーキー級のチームであるGCLメッツで13試合に出場して、打率.298・1本塁打・6打点という成績を記録した。一方、守備面ではファーストとしての試合出場がメインであったが、捕手としても2試合に出場している。プロ入り後にブラゼルが捕手として試合に出場したのは、メジャーリーグを含めてもこの2試合だけである。
翌1999年は、同じくルーキー級のチームであるキングスポート・メッツでプレイ。本塁打こそ、約10試合に1本のペースとなる6本塁打に留まったが、59試合の出場でヒットを85本放ち、.385という高打率を残した。
続く2000年は、A級のキャピタルシティ・ボンバーズでプレイし、自身初となる100試合以上(112試合)の試合に出場した。前年に.400近い打率を記録していたが、この年は打率.241・8本塁打・57打点という打撃成績に終わり、目立った数字を残す事は出来なかった。
前年の成績が芳しくなかった事もあり、2001年もボンバーズでプレイしたが、出場試合数は30試合近く減少し、83試合にしか出場出来なかった。しかし、打撃面での成績は、打率.308・19本塁打・72打点と大幅に上昇し、出場試合数が減少したにも関わらず、多くの部門で前年を上回る数字を残した。
2002年には、A+級のセントルーシー・メッツに昇格。打率こそ.300には及ばなかったものの、100試合で16本塁打を放ち、2年連続で15本塁打以上をクリア。その後、ランクが1つ上のビンガムトン・メッツ(AA級)でも35試合で6本塁打を放った。この年は、2チーム合計で打率.276・22本塁打・101打点という打撃成績を記録した。
前年に引き続き、2003年もビンガムトンでプレイ。111試合の出場で、打率.292・17本塁打・72打点という成績を残し、シーズン終盤にAAAのチームであるノーフォーク・タイズに昇格。目立った数字こそ残さなかったものの、タイズでも12試合に出場した。
翌2004年8月17日、メッツでメジャーデビューを果たした。この年はメッツで24試合に出場して打率.265・1本塁打・3打点という数字を記録。なお、この年に放った本塁打は、メジャーリーグにおけるブラゼルの唯一の本塁打である。一方、マイナーリーグでもタイズで、単独のチームでの試合出場としては自身のマイナーリーグ記録となる123試合に出場。2年ぶりに20本以上のホームランを放った。
続く2005年もタイズでのプレイとなったが、52試合の出場で打率.249・6本塁打・28打点と結果を残せず、同年の10月15日にフリーエージェントとなった。
次なる移籍先を探す必要性が発生したが、約5ヶ月間、所属先を見つける事が出来ず、ロサンゼルス・ドジャースと契約したのは2006年3月7日になってからの事だった。この年、ブラゼルはドジャース傘下のチームであるジャクソンビル・サンズ(AA級)でプレイ。20本塁打と90打点をクリアしたが、一方で打率は.250にさえ届かなかった。10月15日に自身2度目のフリーエージェントとなったブラゼルだったが、この年は12月13日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約を結び、年内に移籍先を確保する事が出来た。
その2007年は、実に3年ぶりとなるメジャーリーグでの試合出場を果たしたが、試合に出たのは僅かに5試合のみであり、放ったヒットも1本だけという寂しい結果であった。一方、マイナーリーグではAA級のチームであるウィチタ・ラングラーズで7本塁打、AAA級のチームであるオマハ・ロイヤルズで32本塁打を放ち、2チームトータルで39本ものホームランを記録し、この年のマイナーリーグ全体の本塁打王となった。
西武時代 [編集]
2007年12月4日、埼玉西武ライオンズへの入団が発表された。推定年俸1億円の1年契約。メジャー通算1本塁打ながらマイナーでは通算162本塁打を打っており、オリックス・バファローズに移籍したアレックス・カブレラの穴を埋める選手として期待され、背番号もカブレラの42を受け継いだ。
2008年はシーズン開幕から4番を任された。真面目な性格で、当時打撃コーチだった大久保博元から積極的にアドバイスを聞くなど、日本球界へ積極的に溶け込む姿勢が見られた。3月は不調だったものの、4月に入ると好調に転じて17打点を挙げ、チームの首位浮上に貢献した。5月に入ると打率が.174と急落したが6月に復調し、打率.344、6本塁打21打点の活躍で来日1年目の外国人選手としては2003年のルーズベルト・ブラウン以来の月間MVPを受賞した。この受賞と、来日して以来自宅から西武ドームまで西武鉄道を利用して電車通勤していたことから、7月8日に西武鉄道が実施する「Save the earth」キャンペーンのイメージキャラクターに選ばれた。
打球方向が右翼に集中する傾向が強く、後半戦はブラゼル対策として極端に右翼側に守備が寄る「ブラゼルシフト」が各球団に浸透したこともあり低打率に喘いだ。徐々に成績は低下し、量産していた本塁打も8月下旬からは1本も打てなくなった。8月22日の対福岡ソフトバンクホークス戦で、空振りしたバットがすっぽ抜け、フェンスを越えて一塁側スタンドまで飛んで行き、観客が怪我をするというハプニングが起こった。この際ブラゼルは右肩を痛め、登録抹消となった。復帰後は定位置であった4番を外れ6番で起用されることが多く、時にはスタメンを外れることもあった。9月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で朝井秀樹から背中に、さらに10月4日にまたも対楽天戦で木谷寿巳から右側頭部に死球を受けて交代し、その後目まいの症状を訴えた。数週間経っても症状は治まらず、クライマックスシリーズに向けての宮崎合宿2日目となった10月8日、「めまいがある」と前日の練習から参加できなかったため、渡辺久信監督は「ぶっつけ本番でCSに向かうようなら、使うところはないということを本人にも言ってある」と発言し、緊急帰京して都内で精密検査を受けることになったが、結局、日本シリーズの登録枠から外されて帰国した。
新聞報道[2]によると、CSと日本シリーズでの助っ人の不在を記者に尋ねられた大久保博元打撃コーチは「もともと穴の多い選手だから」ともはや無用の存在と言わんばかりで、「オレは契約をどうこう言える立場じゃないけど、オレなら契約しない」ときっぱり言ったとされる。もともとブラゼルと大久保コーチには「9月中旬の試合で、狙い球を巡って言い合いになったことがある」(球団関係者)という確執があったとされ、小林信次球団社長はブラゼルの来期契約について「すべての戦いが終わってから」と話したが、当時現場で影響力のあった大久保コーチがメディアで"戦力外"発言をしたことは大きかったようである。ちなみにこの年西武は日本シリーズで優勝した。
ヒラム・ボカチカと共に、翌年の契約はクライマックスシリーズと日本シリーズの活躍次第であるとフロントから通告されていたことを理由に、ブラゼル選手が帰国して両シリーズに出場できなかったことと、頭部死球による故障から復帰のめどが立たなかったことから、11月14日に西武退団が決まり、11月19日にマット・キニーと共に自由契約公示された。
8月以降の急降下によって最終的に.234となった打率が再契約の最大の障害であったとされているが、一年目にして27本も放ったその本塁打数は立派で、当時千葉ロッテマリーンズの監督だったボビー・バレンタインは、シーズン中から「外国人3人(フリオ・ズレータ、ベニー・アグバヤニ、ホセ・オーティズ)を足しても、本塁打数がブラゼルに及ばない」と高く評価しており、オフにロッテが獲得に興味を示したが、井口資仁が入団したことで実現には至らなかった。
阪神時代 [編集]
2009年は、ボルチモア・オリオールズの春季キャンプに招待選手として参加したが、解雇されメジャー復帰はならなかった。複数球団の3Aからオファーがあったが、独立リーグ・アメリカン・アソシエーションのセントポール・セインツに入団。開幕から6試合で打率.556、4本塁打、11打点と好調だった[3]ところ、打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役を探していた阪神の目に留まり、5月28日に正式契約(シーズン終了までの契約)。背番号は当時空き番だった67になった。
西武時代にすでに他球団に攻略されていることから、当初は西武の渡辺久信監督から日本での活躍について否定的な発言をされていたが、6月5日に一軍登録されると、同日のオリックス・バファローズとの交流戦で金子千尋から移籍後初の本塁打を放った。同13日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、左膝、右膝、股間と3球連続で自打球を当てたが、その次の球を本塁打にし、この試合を含む4試合連続本塁打を放った。7月には、史上最強助っ人と呼ばれるランディ・バースからアドバイスを受けた[4]。この月は本塁打数こそ減るも安定した成績を残し、8月になるとまた調子を上げた。米国で長男が生まれた8月26日の対横浜戦ではプロ野球18人目となる1イニング2本塁打を放った。[5]阪神では1982年の掛布雅之以来で、外国人では1969年のウィリー・カークランド以来である。
9月に右膝の肉離れを起こして離脱し、復帰後も怪我の影響で時折スタメンを外れたり、なかなかヒットが出ず怒りをあらわにする場面もあったが、打撃は徐々に復調し、10月の対東京ヤクルトスワローズ戦で本塁打を打つなどチームの3位争いを牽引した。結局このシーズンは全試合の半分ほどの出場数だったが、終わってみれば打率2割9分・16本塁打の好成績を残し、全くの期待外れに終わったメンチの穴を埋めた。阪神では主に6番を打ったが、オールスターゲームまでは不振の新井貴浩に代わって5番を担った。シーズン終了後10月10日にアメリカへ帰国する際「生涯、阪神で選手を終えるくらいの気持ちでいる」と残留を熱望し、阪神への想いを語った。12月12日、年俸8,000万円の1年契約で2010年の契約を結んだ。
2010年は開幕から好調で新外国人のマット・マートンと共にチームをけん引する役目を果たした。6月19日の対横浜戦で大家友和からカウント2-1からの低めのチェンジアップを右中間席中段へホームランを打ち、両リーグ1番乗りの20号を記録(同日、阿部慎之助も記録)。阪神では1990年のパリッシュ以来5人目であり、ブラゼル自身は西武時代の2008年にも記録しているので、両リーグで記録したのは、阪神在籍の1975年と西武在籍の1983年に記録した田淵幸一以来で、外国人選手では初である[6]。同月29日には3打席連続ホームラン(24・25・26号)を放った[7]。オールスターゲームにも特別枠で選出され、第二戦では本塁打も放った。9月1日の対横浜戦で1986年に記録したランディ・バース以来となる助っ人外国人40本塁打を記録し、一時は本塁打王争いのトップに躍り出るが、5位広島・最下位横浜戦の下位チームには滅法強いが上位の中日・巨人戦は苦手にしており、上位チームとの試合が続いた終盤に調子を崩し、最終的にはアレックス・ラミレスには及ばず47本塁打で2位となった。
プレースタイル [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年5月に貼り付けられました。
アメフトをしていたこともあり、がっちりとした体型をしている。
豪快なフルスイングから放たれるホームランが魅力のパワーヒッターである。打撃には桁外れのパワーがあり、西武時代に故障でファーム調整していた際に西武第二球場に隣接する室内練習場で打撃練習をしていたところ、飛距離150 m越えの大飛球を連発し窓を破壊したり[8]、2008年6月27日に埼玉県営大宮公園野球場で行われた千葉ロッテマリーンズ戦ではNACK5スタジアム大宮のピッチまで届く場外ホームランを放った。阪神移籍後の2009年8月には打撃練習時の打球がスタンドの座席を破壊したりということがあった。
西武時代は極端にライトへ引っ張った打球が多かったが、阪神移籍後は引っ張りだけでなく逆方向へもホームランを放つケースが増えた。単に力任せではなく、左打者に不利とされる甲子園で浜風を利用し、それに必要な技術を備えていることを見せている。また、長打に限らず、不利なカウントに追い込まれるとグリップを余す打撃スタイルへ切り替えられる柔軟な思考により、巧みなバットコントロールを生かし左方向への軽打を見せるなど、西武時代よりも打率をかなり上昇させている。
初球から積極的に振っていく傾向があり、打席数に対して非常に四球が少ない。2008年は521打席で30個、2009年は295打席でわずか8つであった。
2010年は左投手に打率.241と苦戦したが、右投手に対しては打率.327、36本塁打と強さを発揮した。
守備では、軽快なグラブ捌きとライナーへの反応の良さから、捕球では安定感を見せている。バントシフトで一塁から猛チャージをかける一面も見せるが、全般的には巨体ゆえに動きがやや遅いため、必ずしも広い守備範囲とは言えない。また、巨体を動かしきれずにミット(グラブ)捌きだけに依存し過ぎた際のショートバウンド処理には、不安定さを見せることもあるため、総合的に見れば巧者であったとしても高い守備力とまでは言えない。
走塁では、左膝に古傷を抱えていることもあって遅く、打球の速さで進塁を自重する分を差し引いても、長打がある割には二塁打がやや少ない。膝の古傷のこともありチームがリードしている時には守備固めや代走を送られることがある。
人物 [編集]

阪神に移籍してからも西武時代の同僚とは仲がよく、2009年6月11日の対西武戦では、一塁を守っている際、ランナーに出たヒラム・ボカチカや中村剛也と談笑していた。その試合でジョン・ワズディンから西武ドームのライトスタンドへ本塁打を放ったが、チームは5-6で敗れた。
吉野家の牛丼が好物で、シーズン中は週4回食べに行っている。阪神在籍時の2010年には、「パワーブラゼル丼」と言う牛丼が阪神甲子園球場で販売された[9]。 一方、寿司だけは何度挑戦しても駄目だという。また、「噛みあうことが出来ない」という理由でタコも食べられないとのこと。
外国人選手は夫人の出産の際などはシーズン中に一時帰国することが多いが、ブラゼルは2009年に長男が生まれた際にも一時帰国せずシーズン終了までチームに帯同した。
ファンからの人気も高く、阪神に移籍した2009年には途中入団にもかかわらず、タオルやTシャツなどのグッズが製作された。ブラゼル自身の野球道具にも平仮名で名前が書かれているため2010年から販売された選手名入りの応援用タオルには、ひらがなで「ぶらぜる67」と印刷されている。
応援歌は2009年はシーズン途中の応援歌の作成はしないという応援団の方針により汎用曲の「ヒッティングマーチ2番」が使われていたが、2010年よりオリジナルの応援歌が作られた。
2010年の公式戦では、自身がホームランを打った際、ベンチ前でナインが出迎える時に葛城育郎が必ず列の最後部、その手前には浅井良が立ち、浅井とは一緒に両腕をお互いに腰の位置で引き合うポーズ(マスコミ等ではブラダンスと称されている)を、葛城とは両腕を挙げながらブラゼルは左脚、葛城は右脚を挙げるパフォーマンスを行っている。4月頃からは、トラッキーとも行なっている。
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【2010/11/08 20:30 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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