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平野 恵一(ひらの けいいち、1979年4月7日 - )は阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 プレースタイル 3 詳細情報 3.1 年度別打撃成績 3.2 年度別守備成績 3.3 背番号 3.4 タイトル・表彰 3.5 個人記録 4 関連項目 来歴 [編集] プロ入り前 [編集] 神奈川県川崎市多摩区出身。川崎市立稲田中学校時代はリトルシニアの野球チームに所属する一方でサッカー部のレギュラーだった。桐蔭学園高校では遊撃手を務め、3年時には主将として第79回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1回戦で小町裕貴を擁する如水館高校を破るも、2回戦の西京高校戦では延長10回の末に敗退。当時から守備は天才とも評された。川岸強(現楽天)とは同級生でチームメイト、また当時同校のエースで後に阪神でもチームメイトとなる浅井良とは高校3年間同じクラスだった。 高校卒業後は首都大学野球連盟所属の東海大学に進学、遊撃手のレギュラーとして4年時に第50回全日本大学野球選手権で優勝した。リーグ戦通算82試合出場、305打数98安打、打率.321、34打点。ベストナイン6回。2001年のドラフト自由枠でオリックス・ブルーウェーブに入団。 プロ入り後 [編集] 1年目の2002年から好守の遊撃手として即戦力になることを期待されていたが応えられなかった。 2003年からは二塁手にコンバートされ、開幕スタメンに抜擢された。打撃はまずまずだったが守備で不安定な送球から失策を多発し、二塁から三塁手にコンバートされたホセ・オーティズと共にチームの守備を破綻させる一因となった。 2004年は打撃好調でシーズン通してレギュラー起用された。規定打席に到達し、10盗塁と三塁打7本を記録した。守備でも硬さが取れ、堅実なグラブ捌きを見せるようになった。 2005年は大阪近鉄バファローズとの球団合併に伴う選手分配ドラフトで同じ二塁手の水口栄二が加わったが、二塁手と外野手の併用で再三ファインプレーを見せた。前半戦は3割を超える打率をキープし、同年も規定打席に到達しチームトップの打率.285を記録。オールスターゲームにも出場し、新人賞を受賞した。東北楽天ゴールデンイーグルスとのカードでは、サヨナラ安打とセカンドライナーの好捕で2日連続のお立ち台も経験。同年オフの契約更改において一般女性と結婚し、第一子が誕生していたことを明かした。 2006年には中村勝広監督の方針で中堅手に専念する構想があったものの、前年と同じく二塁手と外野手の掛け持ち状態となる。しかし二塁手として出場した5月6日の千葉ロッテマリーンズ戦で風速10m以上の強風が吹く中、ファウルフライを深追いし一塁フェンスに激突。打球は捕ったが胸部軟骨損傷、右腰の肉離れ、手首と右股関節の捻挫など選手生命を脅かしかねない大怪我を負いシーズンのその後を棒に振った。オフの契約更改で当初球団は公傷扱いにせず交渉が難航したものの、最終的には「公傷」という表現こそ使わなかったものの球団側が折れた。同年10月21日にスカイマークスタジアムで行われた練習見学会では練習終了後の挨拶で「こんな小さな身体のボクを見て、頑張れば自分もプロ野球の選手になれるんじゃないか、と思ってくれているチビッコたちにひとこと言いたいと思います……そんなに甘かねぇぞ!」と発言、観客の爆笑を呼んだ。 2007年は主に中堅手として出場。コリンズ新監督に「1番バッターは彼しかいない」と絶賛されたが、故障と打撃不振で二軍との往復に終始。シーズン終了後、阿部健太と共に濱中治・吉野誠との2対2の交換トレードにより阪神に移籍した。阪神の岡田彰布監督は「濱中を出すのはわかった。ただし、交換要員は平野でお願いする。」とフロントに頼み込み、後に自身の著書『頑固力』(角川SSC新書、2008年)でも平野の重要性を説いた。 移籍初年度の2008年は外野手登録となったが関本賢太郎・藤本敦士・坂克彦らとの二塁手レギュラー争いにも参戦。オープン戦で結果を残したこともあって、2番・二塁手で開幕スタメン出場。1番・赤星憲広とのコンビは話題を呼び内外野両方でたびたび好守を見せるなど、チームのスタートダッシュの大きな原動力となった。同年は3年ぶりに規定打席に到達し、リーグ最多の47犠打を記録。オフにオリックス時代の重傷からの復活を称え、セントラル・リーグのカムバック賞を受賞した。 2009年はクレイグ・ブラゼルの加入に伴い一時はスタメン落ちするも、赤星の怪我による離脱もあり、金本知憲・新井貴浩・鳥谷敬らクリーンナップに次ぐ自己最多の132試合に出場した。 2010年は真弓明信監督の指示で再び内野手登録となった。同年のオールスターゲームに監督推薦で選出され、途中出場で6年ぶりに遊撃手を務めた。開幕からしばらくの間は高打率を維持しながらも何故か打点がなかなか付かず、5月終了時点で僅か2打点だった。(しかし、得点圏打率自体はさほど低くなかった) 7月17日のヤクルト戦では、ピッチャーの高市俊から、ボール球を打ち、バウンドの高いセカンドゴロだったが、セカンドの田中浩康のファーストへの送球で、一塁にヘッドスライディングし、アウトになった。これに対して平野は塁審の笠原に抗議をしたが認められず、悔しさのあまりグラウンドにヘルメットを叩きつけ退場処分となった。 最終的に打率はリーグ2位の.350、犠打数はリーグ最多を記録した。 プレースタイル [編集] 野球選手としては小柄だが、身体能力を活かした守備範囲の広さには定評がある。やや失策が多いものの、ダイビングキャッチなどの思い切りの良さが持ち味で好プレーも多い。走塁でもヘッドスライディングを多用する。このようなプレーに対して本人は「ケガを恐れていたらいいプレーは見せられないし、そもそもケガを恐れていたらそんなプレーはしていない」と持論を語っている。複数のポジションを守れるユーティリティープレイヤーでもある。 打撃面では小柄ながら速球に力負けしないパンチ力が持ち味。バントの成功率の低さを指摘されることもあるが本人は「サインの関係もあるが、どうせなら自分もセーフになってやろうとした結果」としている。左打ちだが右投手より左投手の方が成績が良い。 PR |
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