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【2024/11/28 13:55 】 |
鳩山一郎
├─≠ョ─ヵラス 大物
├─≠ョ─ヵラス









戦前の事績 [編集]



1950年、公職追放を受けて軽井沢に隠棲し畑仕事に精を出す鳩山


1953年、第26回衆議院議員総選挙で当選した鳩山
戦前は立憲政友会の議員として活躍(ただし、一時期政友本党に参加していた時期がある)し、1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして濱口内閣を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。また、狙撃事件後傷の癒えぬ濱口雄幸に執拗な登院要求を行った。濱口は登院の5ヶ月後に死去している。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱めるものであった為、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。鳩山は対立する立憲民政党政府を苦しめることを企図したようだが、議員としては政争に明け暮れて大局を見失っていたことになる。また、この時期の政友会は田中義一・鈴木喜三郎の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまった事になる。この事は戦後になりGHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。
鳩山は犬養内閣から齋藤内閣にかけて文部大臣を務めたが、1932年(昭和7年)に義兄の鈴木が犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。1933年(昭和8年)の京都帝国大学の滝川幸辰の学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川を休職処分にした。このことは戦後になって反対派の批判材料とされたが、立場上やむをえなかったという見方もある。
樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ、辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の久原房之助による内閣攻撃の一環であり、枢密院の平沼騏一郎が後ろで糸をひいていたという。
帝人事件では台湾銀行頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。
1936年(昭和11年)の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大きな顰蹙を買う。特に軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平・前田米蔵・島田俊雄らと対立した。1939年(昭和14年)の政友会分裂に対しては中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ自由主義的な正統派(久原派)を結成したが[1]、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。1940年(昭和15年)に鳩山は民政党総裁の町田忠治と極秘に正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。
1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際して、自由主義政党人として、議会制民主主義を守る立場から反対した。1943年(昭和18年)の第81帝国議会では東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会。その後は軽井沢で隠遁生活を送った。引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機首相の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。
首相としての事績 [編集]



1954年、第1次鳩山内閣の閣僚らと
詳細は「鳩山内閣」を参照
第二次世界大戦終結後、1946年(昭和21年)の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権問題を発生させたこと等をGHQが問題視したため、公職追放(1946年)となる(軍国主義台頭に協力したとの理由 ─ 統帥権や滝川事件を参照のこと)[2]。 また追放解除を目前に脳梗塞で倒れた(1951年)。
首相の座を目前にしての追放、病気と不運な状態が続いたことから世間の同情を集めることになった。貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後、首相になると(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。
首相在任中、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。また、吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。
日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。
1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言により国交を回復した後に内閣総辞職、政界を引退した。その後、友愛青年同志会[3]を育成するほかは、療養生活を送り、長男鳩山威一郎の末っ子鳩山邦夫が学習院初等科4年から5年に進級直前(稲田朋美が出生から半月後)1959年(昭和34年)3月に亡くなった。
近年、1955年に、米軍駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、アメリカに打診していたことが明らかになっている[4]。
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【2010/11/02 23:12 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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