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【2024/10/06 10:18 】 |
反町 康治
反町 康治(そりまち やすはる、1964年3月8日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロサッカー選手で、サッカー指導者・監督、解説者、北京五輪サッカー日本代表監督を歴任。現役時代のポジションはMF。
目次 [非表示]
1 来歴
2 パーソナリティ
3 所属クラブ
4 個人成績
5 代表歴
5.1 試合数
6 指導歴
7 監督成績
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
来歴 [編集]

清水東高校で沢入重雄、望月達也らとともに全国大会優勝を経験。その後一浪し、一般入試で慶應義塾大学法学部政治学科に入学。大学以降はサッカーを辞めるつもりだったらしく、一浪して入学したのもあり、高校サッカー時代の実績を誰にも知られること無く、入学して数ヶ月間は平穏な日々を過ごしていた(後に”清水東の反町”というのがサッカー部の先輩にバレ、半ば強制的にサッカー部へ入部させられる事になる)。ちなみに人気サッカー漫画「キャプテン翼」に登場する反町一樹というキャラクターは、高校時代の反町がモデルである。
卒業後、総合職にて全日空に入社。全日空横浜サッカークラブを母体とした横浜フリューゲルスで、全日空の社員契約ながらJリーグの試合に出場したことで「サラリーマンJリーガー」として注目された。全日空ではパイロットのスケジュール作成を担当していた。
その後1994年に全日空を退社してプロ契約でベルマーレ平塚(この年からJリーグに昇格を果たした)に移籍し、チーム躍進の原動力として活躍した後、1997年で現役引退。その後はNHK衛星放送やスカイパーフェクTV!などのサッカー解説者を経てスペインでサッカーのコーチング留学を行った。
2001年、J2・アルビレックス新潟監督に就任し(因みに両親が新潟出身であり、彼自身も幼い頃から何度となく新潟と訪れているという縁がある)チームをJ1昇格圏内に押し上げ、2003年最終戦で悲願のJ1昇格を果たした。その後2004年、2005年の2シーズンに渡りJ1残留を果たし、2005年11月にアルビレックス新潟監督を勇退。
この間、サポーターにスタジアムに足を運んでもらうように積極的に奔走。サッカーに関心が無いと言われた新潟で1試合の平均入場者数を3万8千人以上の人気クラブまで成長させた。なお、この数字は熱狂的サポーターで知られる浦和レッズを抜き、2003年から3年連続で入場者数リーグ1位を記録した(2006年シーズンは浦和に抜かれ、記録は途切れた)。
2006年5月29日、北京オリンピック日本代表監督に決まり、ドイツW杯終了後に正式契約することが川淵三郎キャプテンから正式発表された。A代表のコーチも兼務しており、山本昌邦前監督時代には見られなかったA代表と五輪代表の情報交換も積極的に行い、五輪代表からA代表へ選手を送り出していた(これは若い選手を試したいオシム監督の意向もあった)。
2007年8月、五輪予選の成績不振のため、A代表コーチを解任[1]。その後の北京五輪出場権をかけて争った最終予選/最終サウジアラビア戦に引き分けて五輪出場が決まった際は、「予選は苦しい戦いが続きましたが、北京にいけます!!!」と感涙しつつサポーターにスピーチを行った。
大量の選手を招集し、様々なテストを行ったが、結果としてそれが軸となる選手が定まらない状態を生んだ。本戦メンバーには、予選などでさして実績を残していない新しい選手が多く選ばれ、予選常連組の青山直晃、柏木陽介らは外された。結果として、五輪本大会はアメリカ、ナイジェリア、オランダ相手に3戦全敗。1996年のアトランタ大会以降、初となる白星なしでのグループリーグ敗退に終わり、選手選考や采配に対して厳しい批判を浴びた。
その後は解説者として活動していたが、2009年より現役時代後半に所属した湘南ベルマーレの監督に就任。運動量、人もボールも動くサッカーを標榜しJ2の51試合を戦い、就任1年で古巣をJ1昇格へと導いた。
パーソナリティ [編集]

既婚者であり、妻は元客室乗務員。一児の父。
素肌にワイシャツ派。
湘南監督就任後は無精髭を生やして話題となったが、横浜F時代にも口髭を生やしていた時期がある。
本人がしばしば口にする「右手にロジック、左手にパッション」という言葉のとおり、理知的かつ情熱的な人物である。ビデオの入念な分析などを通じ、論理にもとづいた戦術を立てることを得意とする。一方で、苦しい試合のあとには感極まって涙を流したことも少なくない。
スポーツライターの木崎伸也は「常に皮肉を忘れない、会見力のある監督」と評している[2]。
ドイツW杯ではNHKで解説者を務め、この大会ではブラジルを守備が弱いので優勝は出来ないと評し、チェコが優勝すると予想したが、ブラジルはベスト8敗退、チェコはグループリーグ敗退した。
U23日本代表チームを率いる際には「代表としての情熱と誇り」のモットーを掲げていたが、北京オリンピックのグループステージ第2戦のナイジェリア戦前には選手たちに「座して死ぬくらいなら、飛び込んで死のう」と戦術無用の玉砕命令ともとれる指示を出しており[3]、また第3戦のオランダ戦では「オランダはうまいから前からボールを取りに行かなくていい」と2年間取り組んできた戦術を翻す指示を出す[4]など、そのモットーに反する戦術指示・姿勢には選手の間からも疑問の声が出た(実際に同オランダ戦では本田圭佑を中心とした選手らが監督の指示を無視、前からボールを取りに行くサッカーを実行している)。
五輪惨敗後はしばらくサッカーを見るのも嫌な時期が続いていたという。
駄洒落を考えるのが好きで、『ボキャブラ天国』に匿名でネタを投稿したこともある。そのため『月刊ベルマーレ』掲載の4コマ漫画では、サムい駄洒落を繰り出してチームメートを凍らすキャラクターとして確立し、再三登場した。
姉の影響で少女漫画まで幅広く愛読し、『はいからさんが通る』は「別巻含め全部持っている」。
音楽にも造詣が深く、trattoriaから出たコンピCDのライナーで横浜フリューゲルスでともにプレーした高田昌明と対談している。
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【2010/11/18 22:34 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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